ゑんま堂狂言の歴史

History

1017年~1275年頃
(平安時代中期~鎌倉時代)

ゑんま堂狂言本公演の様子

ゑんま堂狂言が伝わる千本ゑんま堂 引接寺は、京都市上京区千本通りに面した西側にあります。

平安時代初期に百人一首の一歌人「小野 篁(おののたかむら)=参議 篁」が閻魔像を刻み、この地にお祀りしたのが始まりと伝えられ、平安時代中期 寛仁元年(1017)に比叡山の高僧「恵心僧都 源信」の門下、定覚上人(じょうかくしょうにん)が、創建・開山された、高野山真言宗の古刹寺院です。
ゑんま堂狂言は、定覚上人が布教のため、大念仏法会を始めた事が起こりと伝えられ、「ゑんまんどうの 狂言は だーれが先 はーじめた、 でっかい坊主が はーじめた。」とわらべ唄の中にも紹介され、今日まで唄い継がれています。
その後一時中断しましたが、鎌倉時代の文永(1264~1275)年間に如輪上人(にょりんしょにん)により再興し、室町時代には隆盛を極めました。
天正二年(1574)織田信長が上杉謙信に下された狩野永徳筆の洛中洛外図屏風の中にも、境内でこの狂言を演じる様子が描かれていることから、この頃にも親しまれた年中行事であったことがうかがえます。

1870年頃~1964年
(明治・大正・昭和初期)

ゑんま堂狂言本公演の様子

ゑんま堂狂言古図 明治、大正、昭和初期に入ると、公演は2週間以上行われ、興業主が現れ、数百人収容の桟敷席を仮設し、席料を徴収するほどの盛況で、境内には市が建ち、多くの人で賑わいました。
「狂言堂」=狂言舞台は、一階が楽屋兼衣装倉庫、二階が舞台になっていて、普段は閉じている雨戸をはずして境内から見物するという他の念仏狂言と同じ構造で、 多くの観客が、桟敷から座って見たり立ち見していました。







1974年~
(昭和後期~平成)

ゑんま堂狂言本公演の様子

第二次大戦後の高度成長期には、各家庭にテレビが普及した影響などから衰退を始め、昭和39年に再度中断してしまいました。
この中断期に、それまで狂言を支えてきた古老が次々と他界され、その上、昭和49年春には舞台として使用してきた狂言堂(江戸時代創建)までが不審火により全焼してしまいました。

鉦太鼓 お寺関係者や地元地域の人達、多くの人が、ゑんま堂狂言の最後を覚悟しました。
しかし、災い転じて福が訪れました。舞台と共に全焼したと思われた狂言面が、幸運にも庫裏内で保管されていて、全く被害を受けていないことが分かりました。
衣装、小道具は焼損しても、面があり、出演者がいれば狂言は復活できると、中断期に若手として活動していた人たち6名が、この火事をきっかけに奮起し保存会を結成、秋から稽古を再開して、翌年5月には復活公演を開くことが出来ました。
衣装や小道具を持ち寄っての3演目だけの復活狂言でした。
以来、今日まで絶える事なく継承を続けています。
現在は仮設舞台での公演で、全盛期の様にはいかないまでも、出演会員数およそ25名、演目数25を数え、毎年5月1日から4日までの本公演では、のべ1,500人以上のお客様に楽しんで頂いています。

2月の節分会奉納と5月の本公演の公開公演(無料)は
公益財団法人 京都市文化観光資源保護財団の補助金を受けています。